【編集長の気になる1冊】おぼえておきたい夏。『海のアトリエ』
うっそうとした木々に囲まれた長い階段を、ビーチサンダルがキュキュッと鳴る音を聞きながら、一人黙々と駆け上がる。下に着ているのは濡れた水着、その上にはお気に入りのワンピース。汗ばむのなんて気にしない。汚れるのだって平気。ここにいる間の私は自由なのだ。
姉妹でもないのに、彼女たちと一緒に台所に呼ばれ、お手伝いをし、賑やかな食卓を囲む。一晩中おしゃべりをした次の朝、眠い目をこすりながらお出かけの支度をする。はしゃぎ続けて声を枯らし、いたずらをして叱られ、気が付けば誰かが大泣きをしている。大騒ぎのまま、また夜の食事の支度に取りかかる。もちろん自分も役割を与えられる。
緊張し続ける私に話しかけてくれたのは、どこか違う世界に住んでいると思っていた年上の女の人。彼女と話しているうちに、少しずつ気持ちが大きくなり、表情が和らいでいく。自分がこっそり紛れ込んでいると思っていた場所が、いつの間にか居心地のいい場所へと変わっていく。そうやって慣れてきた頃に、いつも夏は終わってしまう。
断片的に思い出す、私だけの大切な夏の思い出三つ。特別な時間を過ごしていると自覚しながらも、すぐに終わってしまうことも知っている。だからこそ、記憶に残しておきたいと思っていた出来事ばかり。大丈夫。今もこうして自分にほんのりと影響を与え続けてくれているのだ。
海のアトリエ
「おばあちゃん、この子はだれ?」
それは、おばあちゃんの部屋の壁にかざってある、女の子の絵。おばあちゃんの部屋がなんだか居心地がよくて、時々こうしておしゃべりをする。おばあちゃんは、「この子は、あたしよ」と言い、その絵を描いてくれた人の話を、私に話してくれた。
学校に行けなくなっていたあたしに、ひとりで遊びにおいでと誘ってくれたのは、海辺のアトリエで暮らす絵描きさん。その人は、海が見える部屋で描きかけの大きな絵に向かい、夢中で絵を描き続けるの。あたしがいることなんて、忘れちゃったみたい。だけど、ちっとも退屈しなかった。
見たことのないメニューが並ぶ食卓、外国の画集や写真集であふれる本棚、アトリエの隅に置かれたベッドで眠る夜、朝ごはんの後の海辺の散歩。
「心の中でつくった物語を、そのまま描いちゃえばいいのよ」
絵描きさんの横で、あたしも絵も描いた。そして、美術館に連れて行ったもらった後、お互いの顔を描くことになったの。
おばあちゃんが経験したのは、心が開放された宝物のような日々。ずっと覚えていたいと思った夏。その話を聞きながら「私も会いたい」と思ったのは、主人公の少女だけではなかったはずです。
自身の経験を重ね合わせながら、忘れがたい一つ一つの魅力的な場面を丁寧に美しく描き出しているのは、画家としても活躍をされている 堀川理万子さん。この特別な物語を絵本として味わえる贅沢。一人でも、親子でも。ゆっくりと堪能してみてください。
(磯崎園子 絵本ナビ編集長)
特別に天井の高い、静かなアトリエ。自分はまだまだ子どもだけれど、子ども扱いをしないで話を聞いてくれる。一人でぼーっとしている時間を放っておいてくれる。誰もいない広い海でふたりきり。
読めばその印象はしっかりと自分の体に染み込んでいく。大好きな場面は、大好きな色と一緒に記憶に残っていく。
絵本でもそんな体験ができるなら。この夏もやっぱり、しっかりと覚えておきたい。そんな気持ちになれるのかもしれない。
磯崎 園子(絵本ナビ編集長)
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